気になる
指にトゲ(木のクズ)が刺さってとれなくなった・・・。ネットで調べると、五円玉を押し当てると皮膚が盛り上がってとりやすいらしい。しかし時すでに遅し。もう完全に皮膚の中に入ってしまった・・・。他の方法は、梅肉を当てる・・・梅肉がない。針を火で炙って掘り出す・・・針が無い。
昨日こんな女性2人の会話を聞いた。
A「有頂天ホテル見たで〜。」
B「どうやった?」
A「ん〜なんか内容はよくわからんかったけど面白かった。」
B「へ〜うちも見たいねんな〜」
・・・内容がわからないのに面白いって・・・。THE有頂天ホテルほどわかりやすい映画もないと思うが・・・。時間軸に沿って進むストーリーにワンカットシーンが多用されている舞台のような演出は、観客をひきこむことはあっても、惑わすようなことはない。というかBは「内容わからんのに面白いってどういうことやねん!」ってつっこめよ!
でも仲の良い2人の間ではこれでいいのかもしれない。仲が良い2人は言葉は少なくてもニュアンスで伝わるのかもしれない。もしかしたら、「内容はよくわからなかったけど面白かった」というのも「ストーリーに特別な意味があるわけではないけど、場面ごとに笑える小ネタがいっぱいあって面白かった。」というくいらいの感覚で喋って、聞いているのかもしれない。言葉の意味なんて会話の中ではそれくらいあやふやなものだ。
あと大阪人っぽいとも思った。やしきたかじんがTVで自分の滑舌が悪いことをネタに「大阪の人間は雰囲気で笑うからええねん。何言うてるかわからんかっても、たかじん元気に喋っとるなっていうことで何となく笑うねん。」と言っていたのを思い出した。
でも、本当に理解していなかっただけかもしれないし、BはAの感想に興味が無かっただけかもしれない。こんな分析しても意味がないとはわかっているけど、どうしても気になってしまう。指に刺さったトゲのように。
オチに無理アリ。
もっとすっとするようなオチをつけたかった。トゲが抜けた時のような。
2006年01月26日
投稿者 一人 : 05:15 | コメント (0) | トラックバック |雑念
ミドルネームを考えよう
ちょっとしたメールがきっかけで、妄想モードに入ってしまいました。
みなさんも自分のミドルネームを妄想してみて下さい。
ベタに
まつむら"クリエイティブ"かずと
あえて自分とは無縁の
マツムラ"さわやか"カズト
まつむら"クール"かずと
まつむら"ロンリー"かずと
まつむら"スマイル"かずと
妄想は続く。
音で考えてみる。
MATSUMURA"OF"KAZUTO
BUMP OF CHICKENみたいに・・・ならないな
マツムラ"and"カズト
野球のヒット・エンド・ランっぽく。野球部時代の得意技だったし。
意味不明になってきた。
マツムラ"2番セカンド"カズト
マツムラ"NOW"カズト
俺は今を生きるぜ!って感じ。
まつむら"ポップ"かずと
マツムラ"black"カズト
肌が黒いし、動物占いは黒ひょうだし、ブラックなネタとか好きだし。
マツムラ"more"カズト
さらに向上していく感じ。
マツムラ"JAPAN"カズト
海外進出を視野に入れて。
いい頭の体操になりました。こういう無意味な妄想が発想力を高め、人生を豊かなものにするんです。きっと。
どうも、まつむら"ポジティブ"かずとでした。
2005年12月01日
投稿者 一人 : 23:52 | コメント (0) | トラックバック |雑念
主観と客観の間
自分が面白いと感じるものは「主観と客観の間」にある。
会話が続かない人というのは、主観だけの人、自分の考えに迷いがない人。何を言っても「でも俺は〜だから。」「私って〜だし。」と返ってきて終了。あるいは客観だけの人。自分の考えがない人。
「でも俺は〜だから。」「私って〜だし。」ということ自体は構わない。ただそれが主観的なものであり、他の人は違う考えを持っているかもしれないということがわかっているかが重要。「俺は〜だ。」と思っていても他人から見たら全く違うように見えていることもあるらだ。
会話をしていると、客観的だと思っていた自分の考えが実はとても主観的であることに気付いたり、逆に主観的だと思っていた考えに多くの人が共感したりすることがある。「共感と発見」は会話の醍醐味であって、それは自分の考えにある程度の「迷い」がないと生まれない。会話の中で考えが変わったり、より自分の考えが固いものになったりするのは、主観と客観の間で揺れている自分がいるからで、またその「揺れ」を楽しみたいと思う。
優れたデザインも同じで、「主観と客観の間」にある「共感と発見」を考える作業だと思う。みんなが共感できるものに、さらに新しい発見があったとき優れたデザインになる。
これから僕は似顔絵に取り組もうと思っている。似顔絵も同じで、みんなが似ていると感じる特徴をつかみ、そこに自分なりの視点を加える。そんな「共感と発見」を生む似顔絵が描きたい。
面白いものを探す作業は「主観と客観の間」を探す作業。
****************
なんかうまく例えることが出来なかった。書きはじめるまえはもう少し具体的なイメージがあったんだけど・・・。今回の文章は全然伝わらない気がする。
2005年11月16日
投稿者 一人 : 15:16 | コメント (4) | トラックバック |雑念
ポジティブ依存症
依存って「イソン」とも読むんですね。ずっと「イゾン」だと思っていたのに広辞苑には「イソン」で載っていて、かっこで(いぞんとも)って書いていました。普段「イソン」と使っているのを聞いたことが無いんですが、それは僕が「イゾン」だと思いこんで聞いてるからなのか、みんな「イゾン」と発音しているか、どっちなんでしょうか?
あと、依存症という言葉は広辞苑には載っていませんでした。かなりポピュラーな言葉だと思うのですが、広辞苑の掲載の基準はどうなっているんでしょう?
本当はそんなことが書きたかったわけではないけど、気になってしまったので知っている人は教えて下さい。
ここからが本題。
依存・・・他のものをたよりとして存在すること(広辞苑より)
基本的に僕は何かに依存することが嫌いだ。
依存症といえば、タバコやお酒、最近ではネットなども言われるが、タバコは吸わないし、お酒は好きだが、別に飲まなくても平気だ。ネットは毎日するが、情報収集と必要なコミュニケーション以外で使うことはほとんどない。
1つの考えにとらわれることも嫌いだし、束縛されるのも嫌い。
何かに依存することは自意識が無くなることだと思っていて、とにかく依存することに対する強い抵抗感が自分の中にある。
とは言いつつも、人間は1人では生きていけないのも事実で、タバコのある風景やお酒に溺れる姿に人間らしさの美学を感じてしまう自分もいるし、恋愛ではたまに束縛もされたい。
この自己矛盾を頭の中で整理しょうと思って考えていたら、出てきた言葉が「ポジティブ依存症」。
それは依存を「〜がなければ」から「〜さえあれば」に変えるということ。
僕は阪神ファンだが、阪神が負けただけで、気分が悪くなる人の心理はまったく理解出来ない。そういう人は完全にネガティブな依存で「阪神が勝たなければ」になっている。
僕は阪神が負けても全然平気。というか、野球に関してはもっと広い視野で見ているので、勝ち負けよりも相手チームも含めて選手個々のプレーに感動する。だから「野球さえ観られれば」それで幸せ。
たまには束縛もされたいが、「あなたなしでは生きられない」という恋愛は暗いイメージしか湧かない。そうではなくて、「恋人さえいれば、それだけで楽しく生きていける」そんな関係が素晴らしい。
僕と僕が好きなものには、常にそんなポジティブ依存な距離感がある。B'zもBUMPもお酒もコーヒーも恋人も友達も。べったりではなくて、いざという時に手を差し伸べてくれる距離感。
とまあ、僕はこんな雑念ばかりに長時間脳内が支配される雑念依存症なわけだが、「雑念さえあればブログは続けられる」と思うようにしている。
2005年10月30日
投稿者 一人 : 06:37 | コメント (2) | トラックバック |雑念
結婚
10日のことですが、お世話になっている方の結婚披露宴パーティーに出席しました。ビンゴ大会で最後までそろわず(70人くらいいて4人くらいしか残っていなかった)、逆に残った景品を全て貰えるという、ついているのかついていないのかわからない当たりもありながら、大変楽しめました。景品の商品券は新居の備品購入に大変助かります。感謝感謝。
やはり23歳になると結婚を少し考える。前は、結婚なんて社会が勝手に決めたルールで、一緒にいれればそれで良いと思っていた。今でも結婚願望は特にないし、結婚は恋愛の延長であり、結婚が目的になるのはおかしいと思う。
じゃあ何を考えるかというと、相手のこと。つまり同い年の女性や年の近い女性は結婚を考えてもおかしくないということ。これから恋愛関係になるかもしれない相手がどんどん結婚を意識する年齢になっていくのか・・・とふと思った。
結婚願望は無いが、別に結婚したくないわけでは無くて、あまり結婚という形式にこだわっていないだけなんですが、へたに「結婚願望が無い」と言うと、相手には「まだ遊びたい」と言っているように誤解を受けてもおかしくない年齢になったんだと気付いた。昔なら「結婚願望が無い」と言っても、「若いから」と相手が解釈してくれたが、今は違う。
特に僕は思ったことをすぐに口に出してしまう(正確には思いながら、口に出している)から、よく誤解を受ける。だから付き合った彼女には「そんなつもりで言ったんじゃないねん」とよく謝る。この言葉にも気をつけよう。
「言葉にならない」「言葉は役に立たない」「言葉になってくれない」という表現をよく聞くが、まさにその通りで、自分の考えを100%言葉で伝えることは100%無理だ。岡本太郎氏も、著書の中で、「言葉は自分が生まれる前から存在しているから、その後に生まれた自分を言葉で伝えようとしても、何か本当の自分で無いような気がする」(正確には本が手元にないのでわかりません。すみません。こんなニュアンスです)と言っていた。しかも、その説明すら言葉を使っているわけで・・・そしてそれを紹介する僕も言葉を使っていて・・・もう何が何だかわからなくなってきた・・・このブログのオチもどうなるかわからなくなってきた。
自分の言葉を何かを伝える道具としか考えていない人とは会話を楽しめない。会話は言葉の変化を楽しむものだと考えているので、思ったことを口に出して、とにかく相手の反応が見たい。そして相手の反応に対して自分がどう反応するか、どんな言葉が生まれるかを楽しみたい。そういったことを理解しているか、理解していなくても感覚的に出来ているかはコミュニケーション能力の境界線だと思う。
「変化する会話の中に、なかなか言葉になってくれない本当に言いたいことが、たまに言葉になって出て来るのだ」
今すごい良いことを言った気がする。
ブログも同じ。変化する文章の中にたまに言いたいことが言葉なってでてくる。だからテーマ性が無く全然意味の無いように見えるこのような駄文が実は一番意味があったりする。
2005年10月13日
投稿者 一人 : 03:25 | コメント (9) | トラックバック |雑念
自分のサイトについて思うこと
まずドメイン。商用ドメインなのに個人サイト・・・。まあ仕事も個人でするんだからいいんやけど、内容があまりにも個人的すぎる。商用サイトを立ち上げるときのために、違うドメインにしとけば良かったと少し後悔(商用サイトでshabonhead.comを使いたいので)。中身を移せばええんやけどね・・・。ちとめんどくさい。普通に見てる人はドメインとかあんまり気にしていないんかな?
あとは前のサイトで使っていたフラッシュ。やはりシャボンヘッズは動かしたいな〜と思う。いつやろかな・・・。
3つのブログを組み合わせなくても1つのブログで管理出来たなと思ったり・・・。まあ、ブログを組み合わせる実験をしたかったし、将来的な商用サイトとの連携を考えると今の方が良い気もする。
デザインはとにかく「シンプルだがありそうでない」デザイン。あと個人的に、いかにも「デザイナーです」っていうサイトがあまり好きではないので。かっこよくても使いにくい、見にくいサイトとかね。僕のサイトはわかりやすくメニューもカタカナで(笑)もちろん使いやすさは僕のサイトでもまだまだ追求すべき点があると思うが。このデザインをダサイと思う人もいるんやろな。シンプルに見えて結構考えて作ってるんやけど。と言いつつ、今のデザインに自分自身が少し飽きてきてるが・・・。
とまあ、色々思うわけですが、実際見る人は身内が多いこともあって中身以外はあまり気にしていなかったりで、で、その中身で面白いことを書けるかっていうと、なかなか書けないわけで。結局つらつらと思うことを書くだけになる。
何が書きたいかわからなくなってきた。久しぶりに何か書きたい気分だったのにな〜。ここまで読んでくれた人に申しわけないな・・・。
こんなつまんないダイアリーをここまで読んでくれたあなたはきっと優しい人でしょう。そんな優しいあなたが好きです。
投稿者 一人 : 02:34 | コメント (0) | トラックバック |雑念
ええとこ取り
もうじき選挙。このまえ友達とこんな話になった。
賛成か反対かじゃなくて「ええとこ取りしたらええやん。」
いつもそう思う。二元論はくだらない。賛成か反対か、あれかこれか、そんな単純じゃない。
大学で社会学を学ぶことに途中から冷めたのもそういうこと。レポートを書こうと思うと、何かを主張することを迫られる。でも反対の意見も理解出来る。レポートを結論づけるために無理矢理1つの意見を主張する。そういうのがくだらなく感じるようになった。
本当は教授もそれを理解している。短い期間でレポートなんか書けないことを。だから研究は続けることに意味がある。あれかこれかで結論づけることが出来ない社会の仕組みを把握するために。二元論を超えた結論を出すために。研究を仕事にしてまで続ける。
でも僕らがそんな研究テーマの全てを把握するのは不可能で、決められた字数の中で説明することは絶対出来ない。だから1つの結論を仮定してその根拠を調査するだけで終わる。その研究の意味は良くて教授の参考資料になる程度。その教授の研究が社会に与える影響は・・・。社会学なのにそこは考えない。いくら研究が素晴らしくても伝われなければ意味が無い。
話がそれた。
社会学の考え方自体は好き。常識を常に疑うところなんか、僕にあってるなと1年のときは思った。でもだんだん社会学自体を疑うようになる。社会学は正しいのか?と。
そして就職活動。さんざん社会を疑っておきながら、この会社に入って自分は社会に貢献したいと主張しなければいけない。その会社が社会に貢献しているかどうか疑わず、信じなければならない。
ここで文章を書くときもそう。何かを主張しないと短くまとまらない。本当に自分が書きたいことを書いていると、どんどん長くなって、一貫性のない文章がこのように出来上がる。ええとこ取りのつもりが、とてもつまらん文章になる。
やっぱり何が言いたいかを主張しないと、なかなか理解されないようなので、最後に僕は「主張なんかしたくない。」と主張します。
